2018年1月27日(土)〜2018年4月08日(日)

こんな本があった!15

~岩瀬文庫平成悉皆調査中間報告15~

 平成12年度から継続している岩瀬文庫の全資料調査の過程で出逢った珍しい本や新しい発見などをいち早くご紹介する、年度末恒例展示の第15弾。今年は少し趣向を変えて、会期中(3/17.18)に西尾市を会場として開催される「丸型ポストフェスティバル2018 in ふみの街 西尾」に協賛し、書簡資料特集でお届けします。ヴァラエティに富んだ“ふみ”の魅力をご堪能ください。

会期
2018年1月27日(土)〜2018年4月08日(日)
展示解説
2月24日(土) 午後1時30分~
2階企画展示室
特別講座
3月11日(日)午後1時30分~
「今年度の調査からわかったこと Vol.15」
講師:塩村耕氏(名古屋大学教授/岩瀬文庫資料調査会会長)
会場:岩瀬文庫地階研修ホール
連続講座
1月28日(日)午後1時~
第2回「地図から考える三河・尾張の城下町」
講師:山村亜希氏(京都大学准教授)
会場:岩瀬文庫地階研修ホール
2月11日(日)午後1時~
第3回「長谷寺縁起文の様々な写本(仮)」
講師:田島公氏(東京大学史料編纂所教授)
会場:岩瀬文庫地階研修ホール
遺跡ウォーキングツアー 文化遺産!発見ウォークin吉良
3月4日(日)午前10時~
西尾市塩田体験館(吉良町白浜新田)集合
定員:30名
申込:2月10日(土)から電話または岩瀬文庫へ
詳細遺跡分布調査報告会
3月18日(日) 午後1時30分~4時
発表者:NPO法人にわ里ネット
会場:岩瀬文庫地階研修ホール
定員:70名程度(定員を超えた場合はモニター聴講)
※予約・料金は不要です。

はじめに


『三河人短冊帖』所収、渡辺政香

平成12年6月に開始した岩瀬文庫平成悉皆調査は、ようやく終了に近づきました。現在は落ち穂拾いのような作業を進めているところです。その間、西尾市民をはじめとする多くの皆さまから、あたたかい励ましを頂戴しました。ここに心よりのお礼を申し上げます。どうもありがとうございました。
 「こんな本があった!」展の第15回目は、番外編として手紙の特集を組んでみました。左に掲出の図版は、三河の書物文化の源流に位置する、寺津八幡社の渡辺政香の自筆短冊で、岩瀬文庫の創設理念と深くかかわっているに違いない、文庫の宝物です(詳しくはブックレット『三河に岩瀬文庫あり』を御参照下さい)。

     書
  言だまのさきはふ国のふることも ふみなかりせばいかでつたへん 政香

歌題の「書」は「ふみ」とよみ、書物を指します。いっぽう、漢語の「書」も和語の「ふみ」も、ともに手紙のことでもあります。つまり、手紙も書物も、時空を超えてメッセージを届ける道具として和漢の古代人にとっては同じものだったのです。そのことのもつ意味について、皆さまとともに深く考えたいと思います。
 あわせて、昔の手紙の解読は、古文献を読みこなすための最高の素材ですので、その入門書としても活用してください。




平成30年1月             悉皆調査責任者
                   名古屋大学文学研究科(日本文学)
                   塩村 耕(しおむら こう)




Ⅰ.珍奇な書簡

書物の中に書き写されたり引用されていた、思いがけない書簡資料の数々をご紹介します。




[1]『中川家文書写』38函62号
 豊後岡城主中川家の模写文書集。中川清秀以来の歴代当主とその家族の筆蹟を中心とする。
[2]『俳諧文章車』40函125号
 天保12年(1841)刊。梅左編。標題の「文章」とは手紙文の意。梅室・淡叟・鼎左・岳鳳・道彦・鶯宿・百堂・氷狐・必山などの俳人の書簡53通を模刻したもの。
[3]『茶事随筆』74函66号
 天保6年(1835)、江戸在住の茶道具目利きと見られる炭屋良斎(直入軒)という人物が、持ち込まれた書画や道具類について詳細に記録した覚え書。中に貴重な資料の模写を含んでいる。
[4]『七多羅樹』114函17号
 明治30年刊の俳書で、明治俳壇の重鎮、其角堂永機(1823~1904)編。蕉門の江戸俳人、其角(1661~1707)の二百回忌追善集で、巻頭に其角の遺墨17点を模刻する。
[5]『清商往復書簡』37函108号
天保7(1836)年、長崎に来舶のしん清国商人が銅貿易の不正で入牢、のち赦され帰国した一件で、清人が家族や関係者に宛てた書簡文を集めたもの。海外情報を熱心に集めた山本読書室の写本。
[6]『桑韓往復書牘』47函90号
 文化8年(1811)仲春、対馬まで来た朝鮮通信使の医官に宛てて、京都在住の医者であるもり最里幹が禎長老に託して質問を呈した書簡と「朝鮮国朴景都金鎮周等」連名の返書の写しを収める。書簡中の自己紹介によれば、最里幹は字公済。越前鹿角の人。京住。富野仲達門。『温疫論校註』の近著あり。
[7]『寛斎筆記』95函146号
 幕末の水戸藩士、加藤寛斎による随筆。人巻にある「紅毛国風土」は、長崎でオランダ人の妻となり、文政8年(1825)にオランダに渡った、大坂出身の茶屋女が、天保11年(1840)に故郷の母に送った書簡を引く。
[8]『夢境応酬』149函68号
 江戸の文人画家、春木南湖(1759~1839)が天明8年(1788)冬に約1ヶ月長崎に滞在、来舶清人で画人の費晴湖に画を学ぶ。その間の見聞や清人との筆談応酬を録した書。自筆本。書名の「夢境」は夢の中の別世界の意。


『中川家文書写』 中川清秀の嫡男、中川秀政(1568~92)が、文禄の役に出陣中の朝鮮より留守宅に送った書簡の写し。遠く戦地にあって幼い娘を案ずる文面は、時代を超えて胸を打つ。ところが、その後間もない10月24日、秀政は敵兵に襲われて命を落とす。25歳の若さだった。

『清商往復書簡』




『俳諧文章車』 巻末に「洛枯魚堂(京の医者で俳人、北川梅価)所蔵」として芭蕉の書簡が載る。門人で近江膳所藩士の菅沼曲水宛て。元禄5年(1692)12月ごろ、寒中に曲水より酒を贈られた礼状。芭蕉の筆蹟は偽物が多いが、この原本は真筆だろう。




Ⅱ.添付された書簡

書物には時にその本の成立に関わる書簡が添付されていることがあります。そんな手紙を読み解いてみましょう。

[9]『冨岳写真』寅函68号
 富士山中の所々の風景を描いた彩色刷の画集で、出来がよい。旧目録に「富士山叢書」として一括される35冊のうちの一つで、この岩瀬本は『国書総目録』に載っていない。
[10]『〈万宝叢書〉洋字篇』49函88号
 名古屋の蘭学者で植物学者、伊藤圭介(1803~1901)が編集刊行した蘭学の入門書。天保12年(1841)刊。著者自身が留守宅に宛てて、印刷製本や板木の修正を指示した書簡2通を添える。
[11]『鎖狂録・弁畏聖録・畏聖録正誤』52函195号
 本居宣長の大和魂の論を批判した太田錦城の「畏聖録」(写本の『梧窓漫筆』に所収)に対する反駁書。羽田野敬雄が、平田銕胤(1799~1880)より借りた本を書写したもの。借用の際に平田銕胤が送った書簡を添える。本書のほかに、種々の書籍に関する情報を伝えている。
[12]『神祇伯職掌演説書・神祇官職員令之全文並餘説鈔出』52函197号
 神祇伯の職掌について解説する。天保9年(1838)、幕府寺社奉行よりの下問に対し、白川家(京の貴族で神祇伯を世襲した家)の関東執役、田部井蔵人が返答したものだが、実は三河山中村の舞木八幡宮の神主、竹尾正鞆(1781~1862)が草稿を執筆した。それを羽田野敬雄が、正鞆の息子で平田篤胤門の同門の正寛(1806~1857)より借りて書写した本。羽田野敬雄に宛てた竹尾正寛の書簡を添える。遠慮なく批評してくれるよう依頼する。
[13]『諸陵周垣成就記』143函3号
 歴代天皇陵の所在についての考証書。元禄年間に、唐様の書家として名高い細井知慎(広沢、1658~1735)が、亡兄の勧めにより当時仕えていた柳沢吉保に進言し、本書に基づき、陵墓に修復が加えられることとなった。
 岩瀬本は、江戸時代後期の国学者、伴信友(1773~1846)による書写本。天保12年(1841)、門人で河内在住の国学者・歌人の伴林光平(1813~64)が、河内の陵墓の絵図集を贈った際の書簡を添える。このようにして資料は増補されてゆく。
[14]『増補金石遺文』173函90号
 日本の古印の模写印影を集めた印譜。伴信友(1773~1846)が年来集めた印影を、息子の伴信近(1799~1858)が整理増補した原本。
 下巻巻頭に、伊勢内宮のねぎ祢宜で故実家のそのだ薗田守良(1785~1840)の書簡を貼付する。下巻に収める「已西首丸」の古印について論じ、一方、信友はそれに対する反論を行間に朱書している。
[15]『与中村父子勧学筆記』153函82号
 越後新発田藩第十代藩主の溝口直諒(号健斎、1799~1858)が家臣の中村正慎、正敏父子に与えた勧学の教訓書。溝口家は代々学問好きの大名として知られる。著者55歳の嘉永6年(1853)、家臣に清書させ、藩儒の渡辺予斎(万平)に托して国元の藩校道学堂の教授らに示した原本である。巻頭に著者自筆の書簡が貼付されている。この筆記を藩校の教育に生かすよう、指示する内容。
[16]『宗吾大双紙講義』181函36号
 明治大正の法制史学者・国文学者の池辺義象(当時は小中村義象、1861~1923)が、東京大学古典講習科の学生時代に、国学者の松岡明義(1826~90)による講義を聴講筆記した講義録。中に、義象24歳の明治17年ごろ、郷里熊本の兄源太郎より寄せられた長文の書簡が添付されていた。この前年に義象の父軍次と弟竹雄が亡くなっており、いっぽうこの年1月に義象は師である小中村清矩の娘えいと結婚、婿養子に入っている。兄の手紙は、母親の無事と養子先での心得を教訓する。しかし、この結婚は14年後の明治31年に破局を迎え、義象は旧姓に戻ることとなる。
[17]『渡辺政香詠草』丑函142号
 寺津八幡社の渡辺政香(1776~1840)の和歌詠草。折紙に認め、名古屋の国学者・歌人、植松しげおか茂岳(1795~1876)などの添削を受けたもの。
[18]『鄰交徴書』26函38号
 豊前の漢学者、伊藤松(貞一、生没年未詳)編。初篇は天保9(1838)刊。二篇は天保10年刊。日本に関わる歴朝の中国人の詩文を集成したもの。二篇巻末に、本書を献呈する旨の、伊東活二なる人物の書簡を添付する。伊藤松と同一人であるかどうか、未詳。





『冨岳写真』
「富士山叢書」は水戸の漢学者、青山家の旧蔵で、見返に伊藤圭介(1803~1901)の書簡が貼付されていた。宛先の青山勇(?~1910)は有名な青山延光の長男で、文中の延寿は勇の叔父に当たる。その『題画一百二十詠』は明治21年の刊行で、その頃の書簡らしい。





『〈万宝叢書〉洋字篇』
名古屋の蘭学者で植物学者、伊藤圭介(1803~1901)が編集刊行した蘭学の入門書。天保12年(1841)刊。著者自身が留守宅に宛てて、印刷製本や板木の修正を指示した書簡2通を添える。




『渡辺政香詠草』


折紙に認め、名古屋の国学者・歌人、植松茂岳(1795~1876)などの添削を受けたもの。
添削した和歌詠草を返す際の、植松の書簡を添える。文中「坂部君」とあるのは、政香の次男で、坂部家に養子に入った坂部まさもと政幹(1805~67)のこと。親子で和歌の指導を受けていたらしい。




Ⅲ.資料としての書簡集

手紙は本来、差出人と受取手との私的な情報のやりとりですが、さまざまなことを教えてくれる歴史資料でもあります。

[19]『役者手紙帖』49函31号
 詳細は不明ながら、幕末期、名古屋の富裕な商人と思われる吹原某(河大とも)に宛てた歌舞伎役者やその家族の書簡を上下二段に貼り込んだ帖である。中に、美貌の女形として一声を風靡した名優、三代目沢村田之助(俳号曙山、1845~78)の書簡が23通も含まれていた。脱疽のため手足を切断しても舞台に立ったが、34歳の若さで亡くなった。
[20]『自知即是』73函5号
 旧和歌山藩士で明治に活躍したジャーナリスト、下村房次郎(自知、1856~1913)が、自身の論説や詩歌を収めた逐次刊行書。自ら蒐集した名家の書簡資料の写真をも多数収録する。
[21]『現今名家手簡』95函152号
 明治初年ごろに活躍した文人などの名家書簡の模刻集。長尾景重編、明治16年刊。書簡の多くは、編者の父で旧信濃高遠藩士の文人、長尾無墨(1832~94)に宛てられたもの。
[22]『古今消息集』102函189号
 平安末より江戸初期に至る武将の書簡を中心とした古文書の写しを多数集めた書。近世前期写。このような歴史文書類が、読み物としても喜ばれていたらしい。
[23]『古簡雑纂』102函204号
 水戸の彰考館編、中世から近世初期の古文書の写しを集めた書。東叡山開山堂の旧蔵。
 慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いで東軍についた武将の細川幽斎(藤孝、1534~1610)は丹後田辺城に籠城、西軍の大軍に囲まれ落城寸前に、大坂方の東条紀伊守らに送った書簡。自らの行動の正しさを述べ、死を覚悟して歌道の伝書を朝廷に献上した旨を記す。その後、古今伝授(歌道の重要な秘伝)の断絶を憂えた後陽成天皇の勅命により、開城となる。
[24]『漢学者書簡集』128函85号
 詳細は不明だが、伊勢津藩関係の漢学者書簡11通を写す。
[25]『小林銑次良元儁平田先生ニ始テ逢候時之一件』168函84号
 羽田野敬雄(1798~1882)が、同学と思われる前川絺彦(伝未詳)に送った書簡を、渡辺政香が書写したもの。上総の国学者で本草家、深川もとのり元儁(潜蔵、1810~56)の異才と、同人が平田篤胤に入門した際の逸話について伝える。ほかに深川は稀代の「早見」(速読)で、当時聖堂で1日に唐本を高さ2寸見る人が早見の随一であったが、深河は6寸を見るとの風聞を伝える。
[26]『名家手簡』丑函32号
 江戸時代後期の幕臣、貴志孫太夫(1800~57)が当時の幕臣を中心とした名家の書簡全20通を巻子本に貼り込んだもの。多くは自家宛。
 有名な蘭学者で幕府奥御医師、桂川甫周(1826~81)の書簡。貴志が駿府町奉行として赴任する直前、嘉永6年(1853)のもの。


『現今名家手簡』
巻末に、本書の版元である東京の書肆、小林(鶴屋)喜右衛門に宛てられた、伊藤桂州(東京の漢学者で書家、生没年不詳)の書簡を収める。文中の「小ますや君」は無墨のこと。




『古今消息集』
平安末より江戸初期に至る武将の書簡を中心とした古文書の写しを多数集めた書。近世前期写。このような歴史文書類が、読み物としても喜ばれていたらしい。掲出の書簡は、天文15年(1546)11月、今川義元が三河の今橋城(のちの吉田城=豊橋)を落とした際に活躍した遠江の武将、天野安芸守景泰の軍功を称した感状。




『漢学者書簡集』
これは大坂の町奉行付与力で陽明学派の漢学者、大塩平八郎(1792~1837)が、津藩儒の石川竹厓(1794~1844)に送った書簡。石川に貸した易経の注釈書が返却された際の請け取り。尚々書にある大火の記事により、天保5年(1834)7月の書簡と推定される。その2年半のちの天保8年2月、大塩は反乱を決行することとなる。




Ⅳ.書簡資料あれこれ

誰もが知っている著名人の自筆の手紙、手紙や文字の書き方指南書など、様々な書簡資料をご覧ください。

[27]『書簡集』125函48号
 明治大正の名家の肉筆書簡104通を集めた張込帖。
[28]『書簡集』125函イ67号
 明治大正の名家の肉筆書簡102通を集めた張込帖。
 若山牧水(1885~1928)の書簡。42歳の大正15年5月、歌人の越前すいそん翠村(1885~1928)宛て。翠村は秋田出身で、牧水の主宰する創作社を手伝った。書簡には、同年に牧水が創刊した詩歌の総合雑誌「詩歌時代」の苦労や、同年3月に亡くなった歌人の島木赤彦の追悼式の件が記される。
[29]『書簡集』午函102号
 明治大正の名家の肉筆書簡105通を集めた張込帖。
 郵便の父、前島密(1835~1919)の書簡。越後の人。郵便のみならず、海運や鉄道、通信などの近代化に活躍した。国字改良運動にも尽力した一方、能書として名高い。宛先の竹内幸知は宝生流の能楽師。
[30]『続江戸往来』114函30号
 『江戸往来』の続編として、宝暦5年(1755)に刊行された新作の往来物(手紙文の形式に種々の文物を織り込んだ教科書)。江戸の地名や風俗に、さまざまな職種を網羅し、その繁栄をことほぐ。
[31]『遊状案文』3函1号
 遊女用の往来物に擬した一種の洒落本で、遊女の書く手紙の文例集のように見せて、実は男性が遊郭の舞台裏を知るための書物となっている。初版は天明5年(1785)刊。大坂出来。
[32]『儒林墨宝』卯函12号
 幕臣で久能山惣御門番(知行千八百石)で書家の榊原月堂(照成、1799~1859)が近世期の漢学者の遺墨を集め、丁寧にいしずり石刷にして模刻した法帖。
 三河武士で近世初期の漢学者、石川丈山(1583~1672)が林春斎(鵞峰、1618~80)に宛てた書簡。自作の漢詩を、春斎と、その父の林羅山に添削してもらう件について。長い尚々書にさらに尚々書を重ねているのが珍しい。
[33]『先賢遺墨』辰函106号
 勝浦ともお鞆雄(1850~1926)の所蔵する名家遺墨の写真集。大阪生まれの旧日向高鍋藩士族で、和歌山県師範学校(現・和歌山大学教育学部)、東京府尋常中学校(現・都立日比谷高校)、旅順中学校の校長を務めた教育者。
 新井白石書簡は泉州佐野の富豪文人、唐金梅所宛て。珍しい姓の由来を尋ねている。「やすら殿」云々は『徒然草』九十段による冗談。



『書簡集』
明治の美術評論家・思想家の岡倉天心(覚三、1862~1913)の書簡。34歳の明治28年の筆。宛先は、腹違いの姉の夫で、岡倉家に養子に入った、英語教育者の岡倉真範。中国明代の画家、陸治の絵についての問い合わせに丁寧に答えている。





『遊状案文』
遊女用の往来物に擬した一種の洒落本で、遊女の書く手紙の文例集のように見せて、実は男性が遊郭の舞台裏を知るための書物となっている。初版は天明5年(1785)刊。大坂出来。掲出の箇所は、遊女がなじみの客に送る「日文(ひぶみ)」(自分の動静を詳細に認めて毎日送る手紙)の例。


本企画展図録のご紹介

A4 24ページ 110g 500円
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