竹本筑後掾番付集

たけもとちくごのじょうばんづけしゅう90-112冊

張り寄せ帳。写真は『菅原伝授手習鑑』番付。

  時は元禄十五年十二月十四日の夜半、鳴り響く山鹿流(やまがりゅう)陣太鼓。黒地に白の入山形の火事装束に身を包み、本所吉良邸へ一斉に突入する赤穂浪士・・・。
この年末の風物詩ともいえる「忠臣蔵」のイメージは、刃傷事件から「47年目」の寛延元年(1748)、大坂竹本座で初演された人形浄瑠璃『仮名手本忠臣蔵』によって決定づけられました。時を室町時代、舞台を鎌倉に移し、虚実を入り混ぜ、大胆な脚色を加えた波瀾万丈のストーリーは大衆の評判を呼び、翌年には歌舞伎版も上演された大ブームとなり、義士物芝居=「忠臣蔵」の呼び名を定着させました。




『仮名手本忠臣蔵』初演番付。挿絵は討ち入りのシーン

 本書は江戸時代の浄瑠璃ファンが収集したと御漏れる番付(上演パンフレット)の張り寄せ帳(スクラップブック)で、この中に貴重な『仮名手本忠臣蔵』初演時の番付も含まれています。番付は二枚組で、木版刷りに簡単な手彩色が施され、語り手の義太夫と三味線の演者、人形の操り手の名前の一覧に、名場面の挿絵が添えられます。


『仮名手本忠臣蔵』初演番付。挿絵は大石内蔵助をモデルとする大星由良之助が詠む手紙を、遊女お軽と斧九太夫が盗み見る第一幕祇園一力茶屋の場面。下段は太夫と三味線の演者名。

 欄外には、このファンの筆でしょうか、「大の上々当り」との書き込みがあり、当時の観客の興奮も伺われます。また、この演目の上演中、大星由良之助の人形の遣い手である吉田文三郎と、義太夫の竹本此太夫との間に、芸の上で激しい論争がおこり、此太夫ほか数人の太夫が竹本座を抜け、豊竹座へ移籍した事件についても「此太夫鳩太夫百合太夫右三人豊竹座へ出勤」とのメモがあります。