1. 岩瀬文庫ってどんなところ?
西尾市岩瀬文庫は、明治41年に西尾市須田町の大商人・岩瀬弥助がつくった図書館としてスタートしました。昭和30年に西尾市の施設となり、また平成15年4月には、日本ではじめての「古書のミュージアム/博物館」としてうまれかわりました。
岩瀬文庫では、奈良時代から江戸時代といった日本の古い時代のきちょうな本や、明治から戦前の実用書まで、はばひろい時代と分野の本、およそ8万冊をほぞんしています。なかには、国の重要文化財に指定されているものもあります。
また、展示室では、日本の本のながい歴史やゆたかな文化について、たのしく体験しながらべんきょうできるユニークな展示をおこなっています。
2.岩瀬文庫をつくった岩瀬弥助さんってどんな人?
慶応3年~昭和5年(1867-1930)
西尾市岩瀬文庫をつくった岩瀬弥助さんは、いまからおよそ150年まえの慶応3年(1867)10月6日に、西尾市須田町にうまれました。お父さんのなまえは岩瀬弥蔵、家は肥料を商うお店でした。こどものころのなまえは吉太郎。小学校をそつぎょうすると、お店のしごとをてつだうようになりました。13さいの時にお母さんがなくなり、のちにお父さんが再婚しておとうとが生まれました。
明治20年(1887)、20さいの吉太郎は、しんせきの山本屋のむすめ・岩瀬れいと結婚して山本屋の主人となり、名前も4代目岩瀬弥助とあらためました。読書家の弥助は、このころから本をあつめはじめたといわれています。
すぐれた商人であり、またたいへんな勉強家でもあった弥助は、時代の波にのったあたらしい仕事をつぎつぎと成功させ、明治30年ころには西三河でも有名な大金持ちになりました。明治31年には、1年4ヶ月のあいだ西尾町の町長をつとめました。
弥助は、じぶんのかんがえをあまり人にはなしたり、じまんしたりしない人だったので、なぜ岩瀬文庫をつくったか、はっきりとはわかりません。ひとつには、42さいの厄年の厄落としのために、よのなかの役にたつことをしたい、とかんがえたからだといわれています。そのころ、西尾には図書館がありませんでした。もともと本が好きで、たくさんの本をもっていた弥助は、「わたしが図書館をたてて、町の人たちにも本をよませてあげよう。本をよんでたくさんべんきょうしたり、たのしんだりした西尾のおとなや子どもたちは、りっぱな人間になってくれるにちがいない」と考えたことでしょう。
弥助は、これまでいじょうにたくさんのお金をつかって本をあつめました。あたらしい本ばかりでなく、ふるくてめずらしい本や、がいこくのほんもあつめました。にほんいちの図書館をつくるためにはどうしたらよいだろうか、と日本中の図書館をみてまわりました。
弥助がたてた岩瀬文庫
明治41年(1908)5月6日、ようやくできあがった岩瀬文庫は、まっしろいかべと大きなかわらやね、まるでお寺のようにりっぱだったといいます。うつくしい庭園にはサルもいました。岩瀬文庫にしかない、めずらしい本もたくさんあったので、日本中から人がやってきました。弥助はどんな人にも、ただで本をみせてあげました。
こどものための児童文庫(いまのおもちゃかん)
ほかにも弥助は、まちの人たちのためにさまざまなことをしました。西尾軽便鉄道をつくったり、西尾小学校や県立西尾中学校などの学校をたてるため、また、まずしい人やびょうきの人をたすけるため、たくさんのきふをしました。
昭和5年(1930)1月3日、弥助はびょうきのためになくなりましたが、弥助の本を愛するこころをうけついだ人たちによって、岩瀬文庫はたいせつにまもられました。戦争や三河地震によって、文庫をつづけることがむずかしくなったこともありましたが、「岩瀬文庫は西尾の宝だ。なくしてはならない。」という西尾の人たちの声によって、昭和30年、岩瀬文庫は西尾のまちの図書館となり、つづけてゆくことができるようになりました。
そして、平成15年4月2日、岩瀬弥助のこころをひきつぎ、日本ではじめての古書のミュージアム(博物館)として、あたらしい西尾市岩瀬文庫がオープンしたのです。