2012年11月17日(土)〜2013年1月20日(日)

災害記録を読む

 地震・津波・洪水・高潮・旱魃・大火災・火山噴火――有史以来、日本人はさまざまな自然災害に幾度となく遭遇し、これを記録してきました。その被害の過酷さ、人々の悲しみと絶望、復興のための苦難、何ごともない日々の有難さと、常日頃の心構えの大切さ。こうした災害記録には、先人たちの「同じ苦しみを繰り返さないために」という真摯な願いが込められています。
しかし、過去の歴史を見る限り、時とともに記憶は風化し、教訓は忘れ去られ、災害による悲劇は繰り返されてきました。東日本大震災からもうすぐ二年が経とうとしています。今こそ、こうした先人の声を読み直し、その教訓に学ぶときではないでしょうか。

会期
2012年11月17日(土)〜2013年1月20日(日)
料金
入場無料
展示解説
12月22日(土)
連続講座
11月17日(日)
第2回「三河の兵・海賊-古代末期の三河の社会状況-」
荒木敏夫氏(専修大学教授)
特別講座
12月14日(金)
吉良公310回忌記念講演「吉良家と上杉家~義の系譜~」
上杉邦憲氏(上杉家第17代当主)
国際研究会
11月24日(土)・25日(日)
「フランス国立図書館写本室蔵『酒飯論絵巻』をめぐって」

地震と津波

<出品資料>
『鴨長明方丈記』(152-174)・『折たく柴』(4-72)・『〈信濃国越後国〉大地震御届書』(82-55)・『嘉永甲寅六月地震記』(16-110)・『地震津波末代噺の種』(140-3)・『安政見聞誌』(102-144)・『安政見聞録』(91-240)・『濃尾震災図』(寅-307)・『風俗画報』(147-91)より「臨時増刊第118~120号大海嘯被害録」・『震災画報』(158-83)


『鴨長明方丈記』より「元暦京都地震」
「山が崩れて川を埋め、海が傾き陸を浸し、土が裂け水が涌く。渚の船は波にさらわれ、倒壊する建物が煙のような粉塵を巻き上げる。地面が震え、建物の壊れる音が雷鳴のようだ。家の中にいればたちまち潰され、外に飛び出せば地割れに陥る。ある武士が圧死した我が子の遺体を抱えて泣いていた。剛の者が辺りも憚らず悲しみ嘆く姿に心が痛んだ。」




『大地震暦年考』(103-52)より
「海のそばに住む人は常に老人を敬い慕い、古来より危急の時のことを伝え聞き、常日頃から心がけて雲気や潮の満干の異常をお互いに教えあい、その動静を常に観察しておくべきである。こうしておけば次第に物の覚悟も出来、危急の際も慌てず、命を失わないで済む。」




『濃尾震災図』より「濃尾地震」
「ああ、先月28日午前6時38分はいったいどういう時だったのか。わずか4秒の間に先祖伝来の蓄積も苦労した経営も轟然一倒の中、がれきの下に葬られた。あるいは夫を亡くし妻を亡くし、親を亡くし子を亡くした者、その数は幾千万とも知れない。なんと痛ましい、なんと哀しいことだろうか。願わくば4千万の同胞よ、互いに助け合いの心を起し、多少を問わず各自できる範囲で気の毒な人を援助してほしい。」




『震災画報』(宮武外骨著)より「関東大震災」
「今回の大震災について“腐敗した日本に天が懲罰を加えたのである”“この天誅を肝に銘じよ”“神様の懲らしめだ”とか言った人があるが、私はそれを野蛮思想と冷笑する。家を失い財を失い、父に別れ子に別れ、夫に死なれ妻に死なれた被災者のすべてが悪人か。しかるにそれを天罰とするのは、自然科学を解しない野蛮思想の有害論である。天誅説を唱えた渋沢栄一に、菊池寛が“天誅ならばあなたが生きているはずはない”と喝破したのは痛快であった。」




暴風雨と洪水

<出品資料>
『因伯五水記』(119-156)・『安政風聞集』(102-145)・『〈弘化元辰〉尾陽太平日記』(52-232)


『因伯五水記』より「高麗水」
「文禄2年8月に洪水があった。7月末から一日も晴天がなく、8月半ばから激しい雨が降り続き、雷鳴のような轟音を上げて濁流が溢れ出した。人々は慌て騒ぎ、屋根の上や山へ逃げようとしたが間に合わず。この年は太閤豊臣氏の高麗攻めのため国中の男子が徴発され、残ったのは年寄と女子供だけだったので溺死者が多かったのも無理はない。人々は今もこの洪水を「高麗水」と言い伝える。 」




『安政風聞集』より「安政3年江戸の暴風雨と高潮」
「本所深川に住む松七は、8月25日の台風で高潮を恐れて妻子とともに避難しようとしたが、屋根に登ってしのげば良いとの妻の提案に迷ううちに床上浸水が始まった。4歳の息子を背負い裏口から脱出し、楠の古樹に辛うじてよじ登った。深夜2時頃、楠の下に寄ってくるものがあり、救助船かと喜んだのも束の間、家の棟に多くの人が取り付いたまま流されてゆくのだった。」




『〈弘化元辰〉尾陽太平日記』より「木曽与川の山抜け」
「夜7時頃、雨音の中から山鳴りが聞こえ、作業小屋が揺れた。外に出ると山抜けが周囲の小屋を押し流したところで土中に埋まる5、6人が見えた。駈けつけて掘り出したが、一人は腿が三割ほど削げて意識不明、二人は頭が血まみれだが命に別状なし、一人は左膝を骨折し傷だらけで意識不明、一人は腰を折り虫の息(2時間後に死亡)、一人は左の足首を骨折。介抱の間も鳴動が止まず、いつまた山抜けが起きるかわからない。即刻この場を離れなければならないが、負傷者をどうしたらよいのか。(石川清八郎演舌書より)」




火山噴火

<出品資料>
『桜島噴火記』(125-46)・『肥後肥前変』(127-57)・『浅間嶽大変記』(126-3)


『桜島噴火記』より「薩摩国桜島大噴火」
「薩摩領内の桜島が噴火、火石や灰が降り、桜島の6ヶ村ほどが禿げた。生き残った3千人余を城下町に小屋掛けなどして移し、衣類や食物を手配した。諸役人に被害調査をさせたが、被災者は家へ戻ることさえ難しく、当分の間援助が必要だろう。桜島から離れた村にまで火石や灰が降り、田畑は大損害、農耕馬なども甚だ痛ましいことになった。さらに海中にまで熔岩が流入し、死魚が大量に浮かんだ。噴火の岩なども飛んでくるので船も出せず、漁業関係者は大変困窮した。 」




『肥後肥前変』より「肥前国島原普賢岳 大噴火」
「赤い筋の内側が海へ向かって崩れ込み、島原領33村のうち黒丸印の村々が巻き込まれ流失。死者2万人余。 」




旱魃と飢饉

<出品資料>
『凶荒図録』(5-55)・『大泉救民録』(96-76)・『ききん用心』(152-165)


『凶荒図録』より
「天明3年奥州の大飢饉の時の話。飢饉のひどい村々では食べてゆくすべがなく、穀物があると聞いた土地を目指して親子夫妻が散り散りになりつつはるばると他国へ赴く。妻子の手を引き、あてもなく乞食に出て路傍に死す者もおびただしく、前代未聞のことだったと『通信雑誌 天明年中凶歳日記』にある。 」


『ききん用心』より
「食物の類は一つとてなく、牛馬の肉ばかりか犬猫までも食い尽くし、それでも飢え死にした。一人の生存者もなく全滅した集落もあった。亡骸を弔う者もいないので命日もわからず、埋葬もされぬまま鳥獣の餌食となっている。庭も門も草むらとなって荒れ果て、一村一里が丸ごと無くなった所もある。これ以上悲惨なことがあるだろうか。実情を知らぬ人は「飢饉とは言っても、さほどの被害はないだろう」と思うかもしれない。そんな誤解を晴らすために私が聞いた確かな情報を記すこととする。 」




大火

<出品資料>
『天明戊申平安火災実録』(30-58)・『防火策図解』(89-1)・『焼場方角附』(140-10)・『名府回禄志』(180-175)


『天明戌申平安火災実録』より「天明8年京都大火」
「京都は火難水難が稀で火事に慣れぬため、この大火で丸焼けになったのも無理はない。我が家の辺りは火元から遠かったが火の回りが早かったので、家財を持ち出す暇もなく身一つで逃げて命が助かった人が多い。今後は片時もこの大火の事を忘れるべからず。風が吹く時に出火したら、風下ならば火元からの遠近に関係なく直ちに逃げなさい。たとえ火元辺りに親類縁者がいてもそのまま捨て置き、家族の無事を第一にしなさい。火事場へ応援に行ってもさして役には立たない。自分の安全をまず考えなさい。 」




『防火策図解』より
「およそ太平の世にあって、火災ほど国家の財力を疲弊させ民の盛衰にかかわることはない。いつ何時起こるやも知れず、命さえ危険にさらす火災は身分の上下なく恐れない人はいない。愚か者は何の準備もせずして不慮の火災で全てを失い途方に暮れる。嘆かわしくも憐れな次第である。 」




救 恤

<出品資料>
『仁風一覧』(122-18)・『尾陽五月雨』(96-73)


『仁風一覧』より 
「今年、西国・四国・中国・五畿内で害虫被害が発生。来春の麦の収穫まで食料の米が足りません。米穀や財産の貯えがある人はその身上に応じて援助または貸付けをしましょう。貯えがなくても被害に遭わなかった人は、食糧不足の人々と同様に食事量を減らし、余った分を飢えた人に回し、餓死者を出さぬように助け合いましょう。少しでも余りが出たら援助に回し、さらに余裕があれば備蓄をせずに売りましょう。運よく難を逃れたからといって、人の難儀を見ながら自分ばかり平生どおりに暮らすのは罪深いことです。豊年凶年は自然のこと、自分の村が凶作になった時には他村に援助してもらうのです。心を一つに助け合いましょう。 」




研究と防災

<出品資料>
『大日本地震史料』(157-151)・『大正震災史』(155-64)


『大日本地震史料』より
「貞観11年5月26日、陸奥国で大地震。城下町を破壊し、海嘯(津波)が咆哮し、溺死者多数。人々は泣き叫び、地に伏し起き上がることもできず、あるいは倒壊した家で圧死、あるいは地割れに落ちて生き埋めとなった。海が雷の轟きにも似た音をたて、驚くほどの大波がわき上がり、海から数十里も離れた城下にまで押し寄せた。陸地も野原も道も全て海中に沈み、船や山へ逃れるひまもなく、溺死者は幾千人、家財も田畑も何も残らなかった。(『三代実録』 より)」




『大正震災史』より
「地震はもとより不測の天変地妖であって人力の及ぶところではないが、災禍の範囲を小さくし、救済の道を誤らぬようにすることはできる。ここに戒めとすべき手本を後世に示し、未来の指針とする。(略)編纂の方針は主として収集した報告をもととし、実地踏査を行って比較検証し、正確を期し、歪曲を排すことに努めた。これをここに出版するのは、史上空前の変災を後世に伝えるためだけではなく、万が一の際の備えの一助としたいからである。」




西尾の災害記録

<出品史料>
『三河に関する雑記』(168-18)より「三河国飢饉略記」・『地震海溢記』(1-101)・『尾三両国風雨大津波概況』(酉-22)・『大宝年代記覚』〈参考出品〉複写・『下永良陣屋日記』〈参考出品〉西尾市教育委員会蔵


『三河に関する雑記』より「三河国飢饉略記」
「天明7年の飢饉の時は、百姓は干菜はもとより煤けた豆の葉を稗にまぜて食し、飢えを凌いだ。また東海道筋では稗の粉を餅にして中に糠味噌を入れ、一個5文で売っていた。麦を炊くのは手間がかかって面倒くさいからと米ばかりのご飯を炊き、野菜のおかずだけでは満足せずに魚などを食べ、干菜は食糧ではなく田畑の肥料、稗は家畜のエサだと思っている今の世に育った人々は天明の飢饉の話を嘘だと言って信じない。本当に自分が飢えてみなければわからないのだろう。 」




『下永良陣屋日記』<参考出品>西尾市教育委員会所蔵より「安政東海地震と津波」
「嘉永7年11月4日快晴。朝五つ時(8時)大地震。廊下倒壊。その他所々破損し、江戸部屋も半壊。御台所(政務室)は畑に小屋を建てて住いとした。(略)午後4時頃、小山田村与頭元左衛門が地震見舞いに来て、浜手に大津波が来たと報告。朝より夜まで13度も地震があった。饗庭村の百姓代直右衛門が再び来て(一度目は地震見舞いのみ)、津波が六右衛門の家の前まで来たと報告。 」




『大宝年代記覚』<参考出品>複写より 安政東海地震と津波
「11月4日の五つ時半(9時)に大地震が起きた。(略)西野町の人家が30~40軒壊れた。米津村中の堤は崩壊して田畑は半減、川沿いの田畑や水車小屋に水が流入し、3mの深さの池が潰れ、家々も60~90㎝の薪水。中畑では成願寺の屋根が西方へ傾き、白壁は半分剥がれ落ち、2、3軒倒壊。浜の常夜灯も倒れた。平坂では太田金屋や問屋の蔵は4、5箇所壊れ、ほかは半壊。廻船問屋の新実の蔵は2箇所、そのほかの村も7、8軒ずつ壊れた。地震のときはめまいの様な揺れで所々で地割れがして泥水が噴出した。市川表へ水が噴出し、その後大津波が襲った。平坂の問屋では土場へ船が上がり、門まで水が来た。水の色は土塊のような色であった。小栗新田、中根新田、実禄新田、藤江新田は浸水。一色は間浜橋を始め、どの橋も川を遡る船で押し倒され、安休寺の門前まで津波が上がった。 饗庭の塩田は海のようになった。岡島(高島の誤記か)、豊岡、吉田の堤は27、8ヶ所決壊。本当にこの世が半分むしりとられたような心地がした。その時川中では1m近くも水が吹き上がり、粟粥の煮え立つごとくであった。」




『尾三両国風雨大津波概況』より 明治22年台風と高潮
「明治22年9月11日。大雨。午後より大風となり、尾張と三河は大津波(高潮のこと)と洪水で家屋が流出し、死者が多数出た。その災害は筆紙に尽しがたい。(略)三河国で最も被害がひどかったのは幡豆郡で、大津波による流失家屋588戸、死者683人、船の損壊が26艘、全壊家屋は326戸。(略)この惨状では親子兄弟離れ離れとなり、九死に一生を得ても衣類も家も食物もなく、餓死する者は2万人となろう。よって県官や郡役所、警察官をはじめ有志が尽力して義捐米を出して炊き出しを行い、救助に奔走している。実に古来未曾有の大津波である。後世の話の種とし、また諸君に同胞の義捐や救助に当たってもらうために報知する。 」


本企画展図録のご紹介

A4 16ページ 110g 300円
完売いたしました。