こんな本があった!8
~岩瀬文庫平成悉皆調査中間報告展8~
- 会期
- 2011年1月22日(土)〜2011年3月27日(日)
- 料金
- 入場無料
- 展示解説
- 2月12日(土)
- 特別講座
- 3月13日(日)
- 「今年度の調査からわかったこと Vol.8」
- 塩村 耕氏(名古屋大学大学院教授/岩瀬文庫資料調査会会長)
- 連続講座
- 史料から歴史の謎を読み解く([学術創成研究費「目録学の構築と古典学再生]研究グループ共催]
- 2月19日(土)「三河の海の贄木簡がかたること」
- 馬場基氏(奈良文化財研究所主任研究員)
- 3月26日(土)「丸山御所の時代~吉良氏と実相寺~」
- 松井直樹(西尾市岩瀬文庫長)
◆ごあいさつ◆
今回も「Ⅰ 地方の時代」として取り上げましたが、岩瀬文庫には日本各地の地誌(地理)関係の図書が、とりわけ手厚く集められていることがわかっています。ところで、岩瀬弥助と同じ時代に、もう一人、地誌を専門的に集めた人がいました。高木利太というジャーナリストです。弥助よりも四歳年下で、明治四年に豊後中津藩士の子として中津に生れました。同郷の先輩である福沢諭吉の慶応義塾を出て、大阪毎日新聞に入社し、新聞記者として敏腕を振るいました。日清戦争に従軍し戦況をつぶさに紙上に報告し、さらに欧米にも巡遊しています。その後、大阪毎日の専務取締役となって、会社の発展に寄与し、昭和7年に62歳で亡くなりました。
その膨大な蔵書目録『家蔵日本地誌目録』の続篇中に、岩瀬弥助が登場します。遠江の写本地誌『遠江古蹟図会』について、
「現本は愛知県西尾町岩瀬文庫主の故岩瀬弥助君の好意によりその文庫所蔵の校本を以て謄写したものでその際主人自ら筆者画家を得るため親しく御世話されたのであったが、岩瀬君は昭和五年一月末物故されたのは惜むべきである、同君は一介の肥料商から鉅万の富をなし天下の珍籍奇書を多数に蔵し西尾町のために宏大なる図書館兼公会堂を立てられた篤志家であつた、しかもその図書館公会堂を建設された発意についても面白い感ずべき逸話があるけれどもこれを語るには本書の解題から餘りに脱線するから略し茲に本書を登録する機会に唯だ故人の好意に敬意を表するに止むる」
と弥助の好意への感謝を記しています。しかし、この略されてしまった弥助の「面白い感ずべき逸話」が知りたいものですね。何とも塩村耕氏写真無念でなりません。
ただ、おおよその想像は可能です。明治以降、急速に中央集権の進む中で、失われつつある地方の時代の記憶を、弥助は書物として永遠に保存しようとしたのではないでしょうか。実質の伴わぬまま、「地方の時代」が安易に叫ばれる昨今、弥助の抱いた危機意識とその先見性は瞠目すべきで、再認識が必要だろうと思います。
文庫開設以来初めて行われる悉皆調査(全資料調査)は11年目に入りました。その間に出会うことの出来た「こんな本があった!」を紹介する中間報告展を、市民の皆さんへの感謝を込めつつ、今年も催します。
平成23年正月 悉皆調査責任者
名古屋大学文学研究科(日本文学)
塩村 耕(しおむら こう)
Ⅰ.〈小特集〉地方の時代
「はじめに」で記した通り、岩瀬文庫の蔵書群の中で、地誌類の豊かさは光を放っています。それらの中にひっそりと残された、土地にまつわる伝承は貴重品です。書誌データベースの公開により、全国各地の人たちに新たな発見があることでしょう。
[1]『尾陽名勝志』(123函105号) 尾張国の古い地誌。知多郡のみの欠本ながら、貴重な著者自筆稿本。著者は名古屋玉屋町の書肆、富梁堂藤屋吉兵衛の二代目。
[2]『林政八書』(118函12号) 近世期に琉球で編纂された林政書8種を、明治になって政府より派遣された役人が翻刻刊行したもの。廃藩置県後、林政が退廃した現状に対し、森林の取締や繁殖、保護の参照とするため、旧法を編纂したという。
[3]『高野記』(97函95号)武蔵国高野の里(現・埼玉県北葛飾郡杉戸町)の詳細な地誌。自序によれば、文政5年(1822)に編者の父千丈の師、山上任亭(伝不詳)が高野の里に来た際に、土地の故由を尋ねられたが誰も答える者がなかったため、当時額髪であった編者が思い立ち編纂を始めたものという。地元思いの立派な少年だ。
[4]『新撰陸奥国誌』(97函84号) 明治初年、青森県の官命によって編まれた陸奥国津軽郡・北郡・三戸郡・二戸郡(明治9年に岩手県に編入)の地誌。原本は青森県立図書館の戦災で焼失、写本が史料編纂所にあるのみであったが、別の稿本が岩瀬文庫に残っていた。
[5]『播州旧跡』(140函162号) 著者は筑後久留米藩有馬家家臣(大坂詰か)。元禄14年(1701)、藩命により、有馬家がかつて領した播磨国淡河にある藩主先祖の墓所に参詣、併せて周辺の古城など所縁の旧跡を踏査した際の報告書。
[6]『伊勢繁昌記』(141函37号) 寺門静軒『江戸繁昌記』、田中金峯『大阪繁昌詩』に倣い、伊勢の風俗を活写した漢文集。
[7]『浜田馬島沿革誌』(144函25号) 石見国浜田(現・島根県浜田市)沖にある馬島(三沢島とも)について、開発の沿革と名所等について記した地誌・史書。編者は幕末期の島主、三沢能寿(号石茶)か。
[8]『扈従西上日録』(144函28号) 文政10年(1827)春、将軍家斉が太政大臣に昇進、世子家慶が従一位に加階され、その返礼として彦根藩主井伊掃部頭直亮と桑名藩主松平越中守定永が上使として京へ遣わされた。桑名藩士で漢学者でもある筆者が主君に近侍扈従した漢文体の旅日記。
[9]『信濃奇勝録』(145函70号) 信濃各郡の旧跡、景勝、奇なる禽獣草木、畸人、奇習、奇物、古器物等について実地踏査に基づき記述した随筆的地誌。特に伝説と奇人譚が面白い。著者は信濃国南佐久郡臼田の人で天保13年(1842)没。本書は孫が校訂、書中の書画も清書して上梓したもの。
[10]『旧松代藩慣例概略』(145函152号) 旧信濃松代藩に於て、中等以上の藩士が履行した種々の慣例を記述した書。当時の社会習慣を知る好資料。
[11]『攀晃記草』(146函4号) 明治20年、東京より初めて日光山に遊んだ旅の紀行。著者は旧・越後三日市藩(一万石)藩主第八代の柳沢徳忠と推定される。旅に同行した旧幕臣、新見旗山(正典)が代筆した自筆稿本。なお、新見は維新後、内務省等で地誌編纂に従事、その自筆稿本類が多数岩瀬文庫に収められている。
[12]『奥南見聞集』(146函19号) 陸奥盛岡藩主南部家及び盛岡藩領の歴史地誌に関する記事を箇条書にした雑記。記事の多くは近世前期を中心に享保末年頃までの成立で、古老の見聞書留風の記述。著者は盛岡藩士沖忠敬か。元禄3年(1690)出仕、藩の財政再建に寄与したが、讒言により江戸に去る。元文4年(1739)旧主南部利幹三十三回忌に帰参の命を受けたが、同年12月に没。
[13]『啜茗談柄』(146函131号) 主に越後を舞台とした奇談集。著者は越後刈羽郡南条村(現・柏崎市南条)の人で、家塾三余堂を営む。開塾以来10年、論道講書の餘、門人たちが他技に淫することを恐れ、5日毎に洗沐し、人々に郷里で見聞する所の奇談を語らせたところ、頗る喜ぶべきものがあり、それを筆記したもの。
[14]『大山雑記』(146函170号) 伯耆国大山周辺の伝説奇談を録した雑記。漢文体。全13条。紋章学者の沼田頼輔が写させた本で、本書の転写本しか伝存が知られていない。
[15]『石見外記』(146函198号) 浜田藩士が編んだ石見国の総合的地誌。関係する記述を、歌書文学書、随筆、漢詩文集などに博捜する。浄書本に近い草稿本で、一部に増補書入や附箋、訂正がある。[16]『能州名跡誌』(147函27号) 能登国の地誌。著者太田頼資は金沢城中作事所の属吏。自序末に「予公務にかられて此北嶋を巡る事久し、折にふれ邑人の物語、或は拙見するに任せて愚盲の可笑をもしらず、たゞその侭に書記て懐にするものなり」とあり、実際の巡遊踏査に基づき、道中記風に記述する。旅行記風の見聞記事も多い。
[17]『東備艸記』(148函74号) 岡山周辺の名所や風物、風俗を他国者の視点により記述した地誌。著者朝寝坊西念は伝不詳。東京人らしい。序跋によれば、「君」に従い岡山に3年在住、その間「君」の供をして周辺の各所を遊歴する。間もなく「東路」に帰る予定で、その土産に本書を著したもの。
[18]『道の記』(149函61号) 明和4年(1767)、和歌山藩関係の貴人に従い、和歌山より上京して洛中洛外の諸所を遊覧、和歌山に帰るまでの紀行。貴人とは、和歌山藩御付家老で紀伊田辺藩第十代安藤寛長らしい。
[19]『両金砂山田楽略記』(148函107号) 常陸国久慈郡、西金砂神社(現・金砂郷村上宮河内)と東金砂神社(現・水府村天下野)で72年に一度行われる大祭礼(大田楽)に関する記録雑記。文久2年(1862)3月に行われた大祭礼を実見した見聞記に、種々の関係記録を添える。筆者の久米雅礼は伝不詳。号白雪亭・霞岳・遊楽庵尋探。文化12年(1815)生。水戸藩校弘道館の関係者らしい。
Ⅱ.続出する珍奇本
今年も珍にして奇なる資料たちを紹介します。
[20]『外科起廃図譜』(148函40号) 外科医書。実際に施術治癒した実例により、患者の病態を描いた図譜。図は治癒後の状態を描き、患部の上に治療前の状態を描いた紙片を、上辺のみに糊を付けて貼付し、紙片を捲ることにより治療前後の状況がわかるように工夫した珍書。著者は伊予大洲藩医。有名な華岡青洲の門人で、かの麻沸湯を多用している。
[21]『納豆考』(140函157号) 納豆に関する諸事を、文献よりの引用と見聞により、詳細に記述考証した雑記。著者は東京人らしく、叩き納豆(笊納豆を刻み平めて三角形とし、小松菜と賽の目の豆腐を添えて売歩いた豆腐汁の具)など江戸東京の市井で行われていた納豆の製造販売や食べ方を丹念に記してくれている。
[22]『相州鎌倉之図』(137函19号) 古くより観光地でもあった鎌倉の案内絵地図。刊年を知る手がかりを得ないが、かなりの古版と思われる珍図。なぜか、鎌倉大仏は片肌脱ぎで描かれている。
[23]『上杉軍記』(140函122号) 上杉謙信、景勝二代の事蹟を中心とした軍記。体系的な記述ではなく、作者の体験や伝聞に基づく記述で臨場感あり。主従関係の機微を知る資料でもある。述作者夏目舎人助定吉は上杉謙信の家臣。謙信没後、竹田方の藤田能登守信吉等に仕えた後、永井直勝に召出され、客人分となる。筆録者の夏目軍八定房はその四男。
[24]『開巻得宝編』(147函68号) 渋江抽斎の父、定所が生活上の種々の便利な方法を書き集めた書。カステイラ製法、旅中足痛ざる法、虱ひもの法、蚫を貝ともに切る法など。巻末に抽斎友人の森立之が、抽斎没後に記した良い識語(書入れ)がある。鴎外先生にお知らせしたかった資料。
[25]『徳本上人勧誡聞書』(148函55号) 江戸時代後期の念仏聖として名高い徳本上人の法談を、独特の語り口をそのままに収録した書。自作の狂歌や下世話なたとえ話をおりまぜつつ、信仰の要諦を懇切に説く。時には幼いころに聞き覚えた子守歌まで歌って聞かせている。当時のあらゆる階層に絶大な人気を誇った理由がよくわかる書。
[26]『御勘定奉行石川主水正勤役中関八州江之教諭書』(148函87号の第1冊) 幕府勘定奉行が関八州の農民に示した教訓書。文政年間(1818~30)に石川主水正忠房が勘定奉行在任中に作成公布し、その後、当代の勘定奉行跡部能登守良弼がその帳面を奉行所の腰掛(待合所)に置き、諸人に閲覧書写させたもの。その際、紙や筆墨まで貸し与えたという。本書は伊豆塚本村(現・田方郡函南町)の小川氏が写して持ち帰った本。
[27]『勢州鈴鹿山麓孝子万吉伝』(148函96号) 東海道坂下宿に住む孝子万吉の行状録。4歳で父を喪い、病弱の母を養うために、6歳より街道に出て旅人の小荷物を運ぶ。8歳の天明3年(1783)秋、大坂在番より江戸へ戻る幕臣石川忠房([26]の作者)の目にとまり、事情を知った石川は感動し、万吉の話は幕臣の間で評判となる。
Ⅲ.【小特集】書物・文庫にこだわる人々
岩瀬文庫の蔵書の中には、書物や文庫に各別のこだわりを持った人たちの残した資料が含まれています。考えてみれば、岩瀬弥助こそそのような一人で、それらの書物が岩瀬文庫にあるのは、決して偶然ではありません。
[28]『群書索引』(147函94号) 豊後杵築出身の国学者、物集高見(昭和3年没82歳)が独力で日本の古典籍を博捜して成った、一大索引書の自筆稿本の零本。現在も価値を失わない百科事典『広文庫』の基となった。数段階にわたる編纂過程が知られ、心血を注いだ仕事ぶりがうかがわれる。
[29]『楽書要録』(145函177号) 律呂を論じた書。中国では早く散逸、全10巻のうち巻5~7が日本に伝存する。林述斎編刊『佚存叢書』所収本に基づく転写本ながら、博覧強記で知られる江戸時代後期の漢学者、猪飼敬所による朱書校訂書入がある。その多くは別本に依らずに誤脱を正しており、見識が知られる。[30]『雲煙家印譜』(140函129号) 幕末明治期の伝説的蔵書家、雲煙家鹿島清兵衛所用印の原鈐印譜。代々江戸新川の下り酒問屋で幕府御用達の豪商。印文のうち「深洲/和久楽」は深川和倉町(現・江東区深川)のことで、鹿島家の別荘があり、安西雲煙旧蔵の雲煙家文庫もそこにあった。
[31]『亭記』(146函34号) 著者浅井幽清は現在ほとんど忘れられた存在だが、摂津住吉の人、幕末明治の国学者・官吏にして摂津関係の大部の叢書を次々と編纂した一種の奇人。父幽眷及び自身の著述や自家に関する資料を集大成した、これまた一大叢書。
[32]『足利学校事跡考』(147函86号の第64冊) 足利学校の草創と沿革について諸書に見える記述を引き、自家の考証を付した、足利学校に関する基本書の稿本。著者川上広樹(明治28年没57歳)は旧足利藩士で漢学者・国学者。川上が書写・収集した足利学校関連資料と足利周辺の地誌資料の一山「足利誌資料草稿」の中にあった。[参考]版本『足利学校事蹟考』(147函86号の第63冊) 明治13年9月刊。
[33]『足利学校誌』(147函86号の第57~58冊) 著者岡田秀行(文政11年没)は足利郡よべ(よべ校)村(現・足利市)の人で、代々河内丹南藩の代官を務めた。明和年間(1764~72)、相州堂ヶ島温泉に湯治の際に、地元の医者に語った足利学校の話を収めた書。学校の徳化を受けて立派な人間となった地元住民による善行逸話を集める。嫡孫の祐吉(生没年不詳)がまとめた未定稿本で、新出資料。[参考]『足利学校誌』(147函86号の第60~61冊) 江戸の戯作者・四方梅彦が文章に手を入れたもの。
[34]『摘翠帖』(147函86号の第99冊) 著者相場古雲(明治45年没78歳)は旧足利藩士で尊皇の志士として活躍、書画をよくした文人でもある。維新後は足利学校の保存に全力を傾けた。その自筆雑記・張込帖。
[35]『速水行道雑著』(148函13号) 旧美濃郡上藩士で国学者、速水行道(明治29年没75歳)のさまざまな著述16種を合綴する。そのうち「書籍保存并上梓意得書」は、自らの没後、自著の保存と上梓について詳細に指示した書。上梓は果たされなかったものの、その遺著の数々は無事保存され、岩瀬文庫に安住の地を得ている。