2010年1月23日(土)〜2010年3月28日(日)

こんな本があった!7

~岩瀬文庫平成悉皆調査中間報告展7~

会期
2010年1月23日(土)〜2010年3月28日(日)
料金
入場無料
展示解説
2月20日(土)
特別講座
3月13日(土)
「今年度の調査からわかったこと Vol.7」
塩村 耕氏(名古屋大学大学院教授/岩瀬文庫資料調査会会長)

少し前のテレビCMに「池と沼とはどう違うの?」と問いかけるものがありました。皆さんなら、どう答えるでしょうか。さらに「野と原は?」「森と林は?」はどうでしょう。日本人なら誰でも何となく違いはわかるのに、いざ答えるとなると困りますね。残念ながら国語辞典を引いても、しかとした説明は見つけられません。
 三つめの森と林との違いについては、岩瀬文庫で見た『地方要集録(じかたようしゅうろく)』という本が一つの答えを教えてくれました。それによれば、森とは神社や寺に付随し、材木を人間の用途に供さないもの、逆に林は人の用途に供するものをいうそうです。実に明快ですね。
 さらに古い書物をひもとくと、万葉集に「神社」や「社」の漢字に「もり」とよんでいる例があり、つまり太古の時代に、神は建造物ではなく森そのものに宿っていたことが知られます。現在も各地に社殿を持たない神社があり、同様の神聖な森は朝鮮半島や琉球諸島にも見られ、その淵源の古さを物語っています。漢字の森と林は、一目瞭然、そこにある木の多さによる違いがありますが、日本語のモリとハヤシには、それとは別の相違点があったのですね。
 以上のようなことは、いくら知恵を絞って考えてもわかるはずもなく、古書を通して適切な用例を集めた上で、さまざまな民俗をも勘案してようやく判明するのです。われわれの世界観の根幹にあるものを、古書にたよらずに解明することは不可能です。そのためにはどのような古書が存在するのか、明らかにする必要があるわけで、われわれの悉皆調査の究極の目標もそこにあるのです。
 本年も市民の皆さんへの感謝を込めて、中間報告展を行います。

※最初の質問について、古書の用例や地名から考えた答えを以下に記しておきます。あくまでも私の仮説ですので、正否は不明です。
①池は水を人間の用途に供するもの。とうぜん人工物であることが多い。また水を利用するために、水の出入り口があり、多少の流れがある。沼はその逆。自然に水がわき出たものが多く、水の流れも少ない。
②野は、さまざまな目的のために、木をはやさないようにした、比較的平坦な土地。多くの場合、定期的に野焼きを行った。原はほおっておいても木のはえにくい痩せた土地。


平成22年正月           悉皆調査責任者
                名古屋大学文学研究科(日本文学)
                 塩村 耕(しおむら こう)




Ⅰ.〈特集〉書物を著す殿様たち

 江戸時代は封建制の時代で、基本的に子(嫡子)は親の職業や身分を引き継ぎました。それでも「バカ殿」では重責を果たすことが難しく、幼いころから教養や帝王学を身につける必要がありました。中には学問や趣味に過激な情熱を燃やし、書物にその業績を残した人々もいます。

[1]『節後菊詩(せつごきくし)』(49函83号) 常陸国水戸藩第2代藩主・徳川光圀が重陽の節句後の菊を詠んだ自筆の漢詩。
[2]『観文禽譜』(127函2号) 近江堅田藩第6代藩主・堀田正敦(1755~1832)の著した、江戸時代最高と称される禽類誌。
[3]『菅沼家譜(すがぬまかふ)』(140函52号) 三河国新城の領主・菅沼定実(1629~1692)の編んだ家譜。
[4]『采真画圃詩稿・采真画圃文集(さいしんがほぶんしゅう)』(120函56号) 近江宮川藩第6代藩主・堀田正民の自筆漢詩文集。
[5]『ゆめのたゝち』(154函39号) 信濃須坂藩第11代藩主・堀直格(1806~80)が打ち込んだ日本絵画史の研究書。
[6]『旧都巡遊記稿』(67函78号) 子爵・秋元興朝(おきとも)の実地踏査に基づく京都周辺巡覧記。
[7]『本草啓蒙補遺(ほんぞうけいもうほい)』(140函159号) 筑前福岡藩第10代藩主・黒田斉清による、『本草綱目啓蒙』の補訂書。
[8]『健斎公筆記(けんさいこうひっき)』(118函14号) 越後新発田藩10代藩主・溝口直諒(なおあき)が、庶子で六男の直与に与えた自筆の教訓書。
[9]『日本書紀文字錯乱備考(にほんしょきもじさくらんびこう)』(26函174号) 下野国黒羽藩第11代藩主・大関増業(おおぜきますなり)による、版本『日本書紀』の誤脱訂正書。
[参考]『桑茶蚕機織図会』(123函58号) 大関増業著の殖産振興のための啓蒙書。


『節後菊誌』

『采真画圃詩稿・采真画圃文集』



『健斎公筆記』

『桑茶蚕機織図会』




Ⅱ.〈小特集〉雑談の達人たち

 平凡退屈な日々にあって、いつの時代も人は珍談奇談を求めます。大量生産される安物の情報のなかった時代には、敏感に面白い話題を集め、それに磨きをかけて再び流通させてゆく、ハナシの達人たちが喜ばれました。

[10]『想山著聞奇集(しょうざんちょもんきしゅう)』(136函49号) 江戸期の版本随筆の中では無類の面白さ。著者三好想山は尾張名古屋藩士。
[11]『灯下墨談(とうかぼくだん)』(141函3号) 医者、本草学者として名高い曽槃(そうはん)が、藩医として薩摩に赴いた間の見聞を書き記した雑記随筆。
[12]『古今類聚常陸国誌(ここんるいじゅうひたちこくし)』(127函62号) 近世前期の水戸藩領内における伝説口碑や巷説を豊富に収めた常陸の地誌。著者小宅生順は水戸藩士。
[13]『老士語録』(136函48号) 江戸時代前期、物知りの老武士の語る興味深い話の数々。著者向坂(さきさか)忠兵衛は近江国膳所藩士で山鹿流の兵法家、門人が多数あったらしい。
[14]『金鶏医談』(135函27号) 医者の名随筆。味のある話が多い。著者畑道雲は上野国七日市藩医。[15]『夜窓鬼談(やそうきだん)』(141函81号) 漢学者の著した絵入り怪談本。著者石川鴻斎は三河吉田(豊橋)出身で東京住。


『想山著聞奇集』

『夜窓鬼談』




Ⅲ.〈小特集〉地誌と紀行

 岩瀬文庫には、地誌と紀行関係の書籍が特に手厚く集められたことが、悉皆調査を通してわかってきました。中には珍しい資料を多く含んでいます。これらの本が生まれた江戸時代は、地方に活気や文化がみなぎった、まさに「地方の時代」でした。急速に中央集権化の進む明治大正時代、岩瀬弥助は何を考えてこれらの資料を集めたのでしょうか。

[16]『師崎日記』(140函156号) 名古屋藩のインテリ藩士による知多半島遊覧日記。達意の文章で、風景や風俗の描写にも生彩あり。
[17]『山中(さんちゅう)日記』(127函82号) 著者は筑後久留米藩士。藩命により久留米より豊後日田に至る山中街道から奥山中を巡覧した際の旅日記。
[18]『中川泰寛(なかがわやすひろ)高田より鹿児島へ旅行日記』(141函28号) 越後高田藩士である著者が藩命により高田より薩摩鹿児島へ往復した長旅の日記。
[19]『伊豆濃国懐記行(いずのくにふところきこう)』(143函30号) 著者は旗本二千石酒井家の家臣。代替りにつき、君命により伊豆国田方郡内にある所領を巡見した旅日記で、当時の所領巡見の実態を知る。
[20]『碕行(きこう)二十字詩小稿』(119函361号) 著者新見正典(しんみまさのり)は幕臣、有名な新見正路の男で新見正興の養子。慶応3年、開国の内旨を長崎奉行に急報するため派遣された旅中に詠んだ漢詩の紀行文。
[21]『宇和旧記(うわきゅうき)』(140函131号) 近世前期に成った伊予宇和島藩領の地誌で、ほぼ同時代の写し。早い時期における戦国時代の伝承口碑を豊富に伝えている。
[22]『常陸国(ひたちのくに)地理誌』(141函71号) 編者小宮山楓軒(ふうけん)(1764~1840)は水戸藩士で著名な漢学者。文化4年ごろ、藩命により編纂された領国地誌『水府志料』の、早い段階の自筆稿本の一部らしい。


『伊豆濃国懐記行』

『碕行二十字詩小稿』




『常陸国地理誌』




Ⅳ.続出する珍奇本

 岩瀬文庫には、どういうわけか一風変わった本が多く、調査する者を飽きさせません。今年も珍にして奇なる本たちを紹介しましょう。

[23]『唐船来朝図長嵜図(とうせんらいちょうながさきず)』(137函23号) 長崎の古版絵地図。優れた版画で珍品。湾内には阿蘭陀船や唐船が描かれ、周辺には海防関係の施設が殊更に記される。
[24]『尚書』(136函63号) 後年、歌学者・歌人として大成する公家の中院通勝(なかのいんみちかつ)が書写した『尚書(書経)』。下冊は十三歳、上冊はその数年後の書写で、書風に上達のあとが見られる。「栴檀は双葉より芳し」を思わせる写本。
[25]『山口大州城図』(138函14号) 「山口/大州城」なる未知の城と、城を包囲する軍勢の陣立を描いた、謎の絵図。第一次長州征伐の折、長州側の戦意を失わせるために、幕府軍によって撒かれた伝単ビラか。珍図。
[26]『増刊校正王状元集註分類東坡先生詩()』(141函94号) 古版朝鮮本の蘇東坡詩集。活字版による版面がうつくしい。彭叔守仙(ほうしゅくしゅせん)(1490~1555)の旧蔵、識語あり。
[27]『仁斎(じんさい)先生文集』(143函5号) 京の町人で大儒学者、伊藤仁斎(じんさい)(1627~1705)の漢文集。編者で仁斎長男の東涯(とうがい)(1670~1736)による自筆清書本。[参考]『古学(こがく)先生文集・古学先生詩集』(34函102号) 長男東涯が父仁斎の原稿を借写、増補し、仁斎没後に刊行したもの。
[28]『肥前国遠賀郡長寿貝由来(ひぜんのくにおんがぐんちょうじゅがいゆらい)』(126函78号) 不老長寿をもたらすという法螺貝(寿命貝)の伝説を記した実録。600年前に法螺貝を食べて以来不老不死となったという女の教えにより、貝が再発見される話。
[29]『尾張国府宮祭記(おわりこうのみやさいき)』(140函168号) 多くの図会本で名高い名古屋藩士、高力猿猴庵(こうりきえんこうあん)の自筆本。尾張国府宮(こうのみや)で正月13日に行われる神事を詳細に描いた絵本。裸祭として名高い奇祭であるが、当時は着衣で行われていた。
[30]『遠淡海名勝拾遺(とおとうみめいしょうしゅうい)』(127函61号) 「こんな本があった!Ⅲ」で紹介した『伊勢国之記』著者の元気老人の本がまた出現した。嬉しい再会。こんどは著者の住む遠州の地誌で、実地踏査に基づく伝説口碑を豊富に収めている。
[31]『一天地六偽咄(いってんちろくいつわりばなし)』(126函14号) 書名の「一天地六」とはサイのこと。すなわちサイコロ賭博の諸事について記した書。もちろん天下の御法度だったから、博奕に関する書物は珍しい。
[32]『〈新撰〉掛合狂歌問答』(102函76号) 一首の狂歌の中で江戸と京が優劣を争うという趣向の狂歌に、風俗画をあしらった小冊子絵本。葛飾北斎初期の作。版本ながら、外に伝本の所在は知られない。
[33]『東京五十区町鑑(まちかがみ)・地方(じかた)五区町村鑑』(112函91号) 明治初年に一時的に行われた東京五十区制の各町組の年寄(組長)の印判を集めた判鑑帳原本。
[34]『浅井忠哀悼歌(あさいちゅうあいとうか)』(136函111号) 明治を代表する洋画家として名高い浅井忠の死を、友人で国文学者・法制史家の池辺義象(いけべよしかた)が哀悼して詠んだ和歌五十首を録した草稿。痛哭ともいうべき一首一首が胸を打つ。


『山口大州城図』

『増刊校正王状元集註分類東坡先生詩』




『一天地六偽咄』

『肥前国遠賀郡長寿貝由来』




『尾張国府宮祭記』

『〈新撰〉掛合狂歌問答』


本企画展図録のご紹介

A4 22ページ 110g 500円
完売いたしました。