<特別展> 三河大浜騒動150年~近代化の光と影~
明治4(1871)年、この三河の地で「大浜騒動」と呼ばれる事件が起きました。急進的な近代化・中央集権化の国策と、人々の信仰や暮らしとの乖離から生じた騒動は人一人が命を落とす事件へと発展し、騒動を主導したとみなされた僧侶等の投獄・処刑に至りました。
150年の歳月が流れ、人々の記憶から風化しつつある「大浜騒動」。
「大浜騒動」とは何であったのか、節目を迎える今、再び辿ります。
前期:5月14日(土)~6月26日(日)
後期:7月2日(土)~8月31日(水)
※6月28日(火)~7月1日(金)は展示入れ替えのため観覧できません。
- 会期
- 2022年5月14日(土)〜2022年8月31日(水)
- 料金
- 入場無料
- 展示解説講座
- 日時:①5月14日(土) ②7月30日(土)※中止 午後1時30分~です。
- 講師:安藤弥氏(同朋大学教授)
- 会場:岩瀬文庫地階研修ホール
- 定員:各回とも30名
- ※要予約。5月7日(土)午前9時から電話または直接岩瀬文庫へ。
- 記念シンポジウム「再考!三河大浜騒動から問われていること」
- 日時:7月2日(土)午後1時30分~
- 第一部:講演会
- 「大浜騒動とは何だったのか~騒動と事件~」
- 青木馨氏(同朋大学仏教文化研究所客員所員)
- 「大浜騒動の社会的背景~真宗優勢地域西三河の特徴」
- 遠山佳治氏(名古屋女子大学短期大学部教授)
- 第二部:対談「それぞれの大浜騒動」
- 出演 遠山佳治氏・青木馨氏
- 司会 松金直美氏(真宗大谷派教学研究所研究員)
- 会場:西尾市文化会館小ホール
- 定員:150名 ※要予約・抽選
- 申込:往復ハガキで〒445-0847 西尾市亀沢町480番地 西尾市岩瀬文庫「記念シンポジウム」係まで申込
- ※6月10日(金)必着
- 【往信】ウラに申込者の氏名・住所・電話番号 ※1枚につき2名まで
- 【復信】自分の住所・氏名をオモテ書きに明記(ウラは白紙のまま)
- 料金:無料
主催/西尾市岩瀬文庫・三河殉教記念会 後援/真宗大谷派岡崎教区
※このページ内の写真の複製・転載は固くお断りします
はじめに
三河大浜騒動(別称、「鷲塚騒動」「菊間藩一揆」など)は、直接的には明治4(1871)年3月9日に大浜・鷲塚とその周辺で起こり、翌日には収束へと向かった事件である。しかし、事件そのものの経緯は非常に濃密で、事件に至る歴史的道程も長く、さらに事件後の歴史的展開にも注目すべき点がある。
そこで、今回の展示では、第1章で「明治初期の宗教状況―「廃仏毀釈」とその周辺」と題し、江戸時代から明治時代へと日本社会全体が大きく移り変わる中で、特に「神仏分離」と「廃仏毀釈」という大きな文化的変容が仕掛けられ、混迷する状況を点描する。大浜騒動の歴史的前提には日本史上の大きな問題があることをまず確かめる。
続いて第2章「東本願寺護法場と三河護法会」では、そうした時代情勢に対して、浄土真宗・東本願寺教団がどのように対応し、また三河ではどのような僧侶達の動きが見られたかについて紹介する。その中に、「護法」精神を発露し、大浜騒動の中心的人物となっていく石川台嶺・星川法沢らの姿も見出していく。
さらに第3章には「菊間藩の宗教政策と教諭使高木賢立」と題するテーマを掲げ、明治政府の方針に基づき、菊間藩大浜出張所がどのような地域的宗教政策を打ち出していったについて見ていく。そこで菊間藩側で教諭使として苦悩しながら活動した高木賢立にもしっかりと焦点を当てていくのが、今回の展示の新たな視点である。
そして第4章「大浜騒動―発生・経緯と結末、そして語り継がれる歴史」で、大浜騒動当日の動向を取り上げる。また事後対応と関係者のその後についても、残された多くの史料から確かめていく。さらにこの歴史的事件を記憶にとどめようと繰り返される顕彰・検証の営みも重要である。
以上のような構成を通して、三河大浜騒動とその歴史的事件に見出される近代化の光と影について、考えていくことにしたい。
02_はじめに 三河大浜騒動150年
第1章 明治初期の宗教状況―「廃仏毀釈」とその周辺
日本人の宗教観は古来、神仏習合・本地垂迹であった。神は仏(本地)がこの世に現れた姿(垂迹)と考えられていた。徳川幕府を打倒して成立した明治政府は天皇制国家建設のため神道国教化政策を打ち出し、慶応4(明治元・1868)年3月、「神仏分離令」を発出した。神仏習合を否定する方針が打ち出され、これにより「廃仏毀釈」(仏教弾圧)の風潮が全国に波及した。一方、キリスト教は禁止政策が継続されたが、西洋文明の流入に対して僧侶の護法意識、民衆の不安感情は高まり、「耶蘇(キリスト)教」排撃の風潮も生まれることになった。明治初期の宗教状況は混沌としていたのである。
03_第1章 明治初期の宗教状況-「廃仏毀釈」とその周辺
第2章 東本願寺護法場と三河護法会
幕末・明治維新期、廃仏論やキリスト教への危機感から仏教各宗は「護法」意識を高めた。とりわけ、浄土真宗の「護法」運動は活発で、東本願寺はその教学機関である学寮に、さらに「護法場」を設置して、儒教・神道・天文学・耶蘇教に関する研究講義に取り組んだ。「護法場」に学んだ三河の若手僧侶らは明治2(1869)年、地元に「三河護法会」を結成した。会員は200余名となり、総監に専修坊の星川法沢(ほうたく)、幹事に蓮泉寺の石川台嶺(たいれい)が就いた。「護法」論を中心とする講義が三河の各地で開かれ、僧侶達の意識が昂まっていくとともに、門徒民衆にもその雰囲気が広がったようである。
04_第2章 東本願寺護法場と三河護法会
第1節 東本願寺護法場
第2節 石川台嶺・星川法沢と三河護法会
第3章 菊間藩の宗教政策と教諭使高木賢立
菊間藩大浜出張所は、少参事の服部純(はっとりじゅん)を中心に、明治政府の方針に沿った諸政策を進める中で、宗教面においては寺院統廃合という大作業を行おうとした。明治4(1871)年2月15日、菊間藩は支配地域内の諸宗僧侶を大浜役所に呼び出し、寺院統廃合を下問した。東本願寺僧侶は、これは仏教自体の存亡につながりかねないという懸念から回答の延期を申し出たが、混乱の中で西方寺が100軒以下、光輪寺が10軒以下なら合併可と述べたとされ、三河護法会に大きな衝撃を与えた。また、光輪寺の高木賢立(たかぎけんりゅう)は菊間藩から教諭使(きょうゆし)にも任じられ、各地で明治政府の方針を民衆に説く役目を担ったが、真宗信仰と異なる内容を話さざるを得ないことに苦悩した。
05_第3章 菊間藩の宗教政策と教諭使高木賢立
第1節 菊間藩大浜出張所
第2節 教諭使高木賢立の苦悩
第4章 大浜騒動―発生・経緯と結末、そして語り継がれる歴史
明治4(1871)年3月2日、そして8日、暮戸会所(くれどかいしょ)に三河護法会の僧侶達が参集し菊間藩からの下問について激論となったが意見は割れた。そのうち石川台嶺ら30人は9日未明、血誓を行い大浜へと向かった。同日夕刻、鷲塚(菊間藩領)の庄屋宅で藩役人と会談に及んだが、長時間となり、群集した民衆が庄屋宅を襲撃し、役人一人が落命するに至った。その後、台嶺ら関係者は逮捕され、取り調べに続き裁判となり、同年12月27日に判決が言い渡された。台嶺と榊原喜代七(さかきばらきよしち)が死罪、多くの僧侶・門徒が投獄され、後に獄死者も出た。大浜騒動はその後、事件後50年を期して台嶺処刑地(西尾市葵町)に殉教記念碑が建立されるなど、その歴史は長く語り継がれてゆく。
06_第4章 大浜騒動-発生・経緯と結末、そして語り継がれる歴史
第1節 大浜騒動の発生・経緯
第2節 大浜騒動の事後対応
第3節 関係者のその後―獄中の生活、赦免後の生きざま