関東下向道中記

かんとうげこうどうちゅうき38-11014冊 江戸時代

 お公家(くげ)さんは実に筆まめに日記や記録を書き残しています。家職や故実について、当人の備忘のみならず、子孫のためにも書き残すことが公家当主の責務の一つだったからです。
 岩瀬文庫には柳原家の日記や記録類がたくさん収蔵されています。本書は、武家伝奏(ぶけてんそう/幕府の意見を朝廷に取り次ぐ役職)を務めた柳原資廉(すけかど)が記した日記です。



 江戸時代、毎年三月に勅使(ちょくし/天皇の使者)を江戸城に迎えるのが慣わしでした。資廉は十五回この勅使を務めており、元禄14(1701)年三月十四日、浅野内匠頭(たくみのかみ)の刃傷(にんじょう)事件の時も江戸城内に居合わせました。日記によれば、城内は大騒ぎになり、畳などが清められた後、老中が事件を憚(はばか)って日延べを申し出ましたが、資廉は「少しも苦しからず」と意に介さず、将軍と対面しました。
 のちに赤穂事件の発端となる事件の日記が、巡り巡って旧吉良庄に建つ当文庫に収蔵されたことには、何やら不思議な縁を感じます。


 事件当日の日記(見開き左頁)。「…浅野内匠乱気也、次ノ廊下ニテ吉良上野介ヲキル、大ニ騒動…」と記す。