解剖存真図

かいぼうぞうしんず辰-472巻

「第17・諸筋第二図」顔面の筋肉の状態を図示しています。


 この解剖図は、江戸時代末頃に貴志孫太夫(きしまごだゆうただよし)が精密に書き写したものです。
 原図は、文政2(1819)に淀藩の藩医・南小柿寧一(みながきやすかず)が40体余りの解剖に基づいて作成しました。全83図の人体解剖図と、牝猿及び胎仔の解剖図が4図描かれています。江戸時代の解剖図のうちもっとも優れたもののひとつと言われ、大槻玄沢(おおつきげんたく)ら当代の名医の跋ほか、後年シーボルトもこも巻に賛辞を寄せました。

 長い間日本では陰陽五行説に基づく医学が行われており、人間の体は五臓六腑(ごぞうろっぷ=肝臓など中身の詰まった5つの臓器と、胃など袋状になった6つの臓器)から成ると考えられていましたが、宝暦4(1754)年、日本初の人体解剖が行われ、五臓六腑の考えが間違っていることがわかりました。当時、解剖は死者を切り刻む罪深い行為だとタブー視する見解もありました。その中で経験・実証精神を重視する医師らによって生み出された解剖図は、近代医学の扉を開く原動力となりました。


「第54・開胸腹見諸臓本位」胸から腹を切開し、肋骨を開いた状態で見える、内臓の位置や様子を図示しています。