水虎考略

すいここうりゃく1-771冊 天保7(1836)年 霊槐書写

 水虎とは、河童のことで、川太郎・河伯など多くの異称があります。この本は、日本や中国の記録や文献から河童の情報を引き集めた江戸時代の“河童研究書”です。相撲を好み、人語を解し、頭上が皿のように凹み、水かきや亀のような甲羅があり、肌が鯰のように滑る・・・といったおなじみの河童の特徴が詳細に報告されています。


 この『水虎考略』の原本を著したのは、昌平坂学問所儒者の古賀侗庵(こがとうあん 1788~1847)。同門下で関東・東海の代官を歴任した羽倉用九(はくらようきゅう)、幕臣で『寛政譜』編さんに携わった中神君度(なかがみくんど)から提供された河童遭遇者からの聞き取り情報に、和漢の地誌や奇談集から集めた河童情報を合わせ、文政3(1820)年に一冊にまとめました。

 さらにこれに江戸城御殿医で著名な本草学者でもある栗本丹洲(くりもとたんしゅう 1756~1834)が、各地で捕獲、目撃されたという河童の写生図などを多数付け加えました。当時の本草学者ネットワークの間では、こうした珍奇な動植物の情報や写生図は盛んにやり取りされていたのです。

 さらには、天保10(1839)年に再び古賀侗庵によって、より多くの文献から河童譚を集めた『後編』2冊も編まれました。当時一級の学者たちが、資料や証言を丹念に収集検討して真摯に研究する姿勢からは、未知の生物・河童と共生していた江戸時代の日本人の姿が窺われます。


左は享和元(1801)年に水戸藩東浜で網にかかった河童の姿。「身長三尺五寸、重さ十二貫目。胸が隆起し、猪首。背が曲がっている」と記されています。




 右は甲羅のないタイプの河童。左は伊藤長兵衛が写生した河童の図。のちに明和(1764~1772)の頃に本所(今の東京都墨田区)の辺りで捕らえられ、太田澄玄が鑑定した河童もこれとそっくりであったという。「身長は二尺(約60㎝)、体は鯰のようにぬめっている・・・」と記されている。